『蝉時雨を忘れない』
※同性愛表現、描写としての性行為有り
春香:国際社会学先行の大学三年生 小百合とは恋人同士 流されやすいところがある 蝉元光哉のファン(21歳)
先生(蝉元光哉{せみもとこうや}):恋愛小説作家 女性同士の恋愛を題材にすることが多く『女』について深く追求している 子供っぽい一面がある(34歳)
小百合:純文学専攻の大学三年生 春香の恋人 少し嫉妬深いところがある 蝉元光哉のファン(21歳)
【配役表】
春香:
先生:
小百合:
春香:とある書店に一冊の本が置かれていた
ハードカバーのそれは書店の隅に身を隠すように置かれていた
著者の名前は帯で隠れて見えない
その本のタイトルは…
先生『蝉時雨を忘れない』
小百合「あーあ、一番乗り、逃した…しかもほぼ後ろの方…
春香「…もう、それさっきから何回目?ホントに、この通り、
春香:小百合は時間にうるさい
待ち合わせの時は10分前に着いていないと機嫌が悪くなってしま
それが分かっていたからスマホのアラームを3つもかけたのに寝過
それには訳があった
小百合「大体、
春香「うう、面目ない…」
春香:私たちの目の前の書店には『蝉本光哉(せみもとこうや)先生
そう、私たちはこのサイン会に参加するため、
蝉元光哉。ニッチな恋愛小説家であり、
処女作は『君は影にくちづけた』で、
ニッチな、と称したのには理由があって、
私が何故ここまでこの作家について詳しくなったか、
元々ハードカバーの本など読んだことはなかったのだけど、
(大学の食堂にて)
小百合「ねえハル!ちょっと!聞いて!これヤバイから!」
春香「え、ちょ、なに、どしたの急に。何その分厚い本。
小百合「違うってば!あのね、
春香「わかった、わかったから、とりあえず一旦落ち着こ?
小百合「飲む!…(お茶を飲む)ふぅ、ありがと。あれ?
春香「三時間目休講になっちゃって、
小百合「授業終わり。小腹空いたからなんか食べようと思って…
春香「あ、やっと思い出したか」
小百合「わかってたなら言ってよね!で、そうそう、
そしたら最初の三行読んだだけで引き込まれちゃって!」
春香「出ましたよ、小百合さんってば活字中毒なんだから」
小百合「ちーがーうーんーだって!もう!
春香「なにそれ、ますますわからん」
小百合「いいからちょっと読んで!」
春香「え、今ここで!?」
小百合「いいから、はやく!はやく!」
春香:こうなったら小百合は引かない
正直ハードカバーには苦手意識しかなかった
小説なんて人生で触れてこなかったし、
もう一度小百合の顔を見る。瞳を輝かせてこちらを見ていた
仕方ない、か
春香「…わかったけど、最初の一ページだけだよ?」
小百合「全然いい!ハルなら絶対ハマるはず!」
春香「どうかなあ…」
春香:言いながらズシッとくる本の重みにげんなりする
ひとつため息をついてページをめくり文字列に目を落とす
そこから先は、あっという間だった
心臓をギュッと鷲掴みにされたような、
気が付けば小百合の声が遠くなり、周りの喧騒も遠のき、
小百合「……ル…ねえ、ハル!」
春香「っ!あ、え?」
春香:何分、何十分経っていたのだろう
時計を見ればとっくに四時間目が始まっている時間だった
小百合は呆れ笑いといった感じでこちらを見つめ、
小百合「ハルはハマるって私言ったじゃん。ね?
春香「あ…えっと…、うん」
春香:恥ずかしさに顔が赤くなる
小百合「なにー?照れちゃってるのー?ハルったら可愛いー!」
春香「ち、ちがっ!いや、違わないけど…」
小百合「ね、貸してあげるからさ、それ全部読みなよ」
春香「いいの?」
小百合「いいよ!私三回は読んだもん!」
春香「…ありがとう」
小百合「あーあ、四時間目もう行けないね、どうする?
春香「…いや、その、これ、読みたい」
春香:私が呟くように告げると、
春香「ちょ、小百合!なにやって!バレたらどうす…」
小百合「なーに言ってんの!ここは女子大だよー?
春香「でも…」
小百合「それ以上言うならチューしちゃうぞ?」
春香「!」
小百合「あはは!ジョーダン!じゃ、
春香:ワンピースをひらりと翻して、
『君は影にくちづけた』をカバンにしまうとずしり、
けれど嫌な気持ちは湧いてくることなく、
それが約三か月前のことである
小百合「女なんて本当に碌なもんじゃない。
好きだの愛してるだの、囁きキスした唇で、
春香「え、なに?それ『君は影にくちづけた』の最初じゃん!
小百合「そんな訳ないじゃん、大好きだから持ってきたの。
春香「ああ!持ちます!持たせてください!」
小百合「ふふん、分かればよろしい」
春香:小百合が得意げな顔をしながらカバンを差し出す
受け取ると本当に重たかった。
小百合「いやぁ、でもさ、この本渡したその日の夜、
春香「ちょ!な!こんなところで何言ってんの!」
小百合「や、だって玄関で押し倒してきて無理やり、
春香「わーわー!やめてって、やめてったら!」
春香:私たちの関係はもちろんプラトニックなものではない
その日によって上下は入れ替わるけど、
なぜだろう、自分の中の欲望という欲望が言うことを聞かず、
気が付けば小百合が達したあとの激しい呼吸をしていて、
小百合「それからだよね、先生の作品読んだあと、
春香「ち、ちがっ!たまたまタイミングがそうなだけで、私は…!
春香:本当は小百合の言うとおりだった
蝉元先生の本を読むたびに欲望をこらえきれなくて、
作品数自体多くはなかったので、
それほどまでに蝉元光哉という作家に熱をあげていた
小百合「ハイハイ、分かりました分かりました、
春香「あ、ホントだ、開店時間だね」
小百合「はー!キンチョーしてきた!どんな人なんだろね!
春香「どうするって…どうもしないよ、ああ、
小百合「じゃあ逆に、すっごいオッサンだったら?
春香「…モテないから女についてよく考えてるのかな、
小百合「うっわハルってば辛辣ぅー!まあそうだよね、
春香「あ、列動いた」
小百合「ヤバ!行こ行こ!」
春香:鼓動が高まるのを感じる
私の欲望をここまで掻き立てる存在、
サイン会は今日発売の、これまた同性愛がテーマの恋愛小説、『
先に本を購入しておいて、引換券を店員さんに渡して、
列が進むたび、鼓動が一つはねる。やがて特設ブースが見えてきた
いよいよ順番が巡ってきた
小百合「じゃ、先に行ってくるね!カバンありがと」
春香「あ、うん!出たとこで待ってて!」
小百合「わかった、行ってきます!」
春香:小百合の姿が見えなくなる
と、同時に柔らかい男性の声が聞こえてきた。
どうしよう、どうしよう、ああ、なにを話すか考えてなかった
ここにきて話す内容を決めていなかったことに気付く
今さらじたばたしても遅い。
春香「あ、は、はい!…っうわぁ!」
春香:緊張でもつれたサンダルは絡まり合い、
すぐに店員さんが駆け寄ってくる音がする
恥ずかしい、恥ずかしい!こんなのってあんまりだ!私のバカ!
幸い捻ってはいなかったのと、
ほっと一息ついたその瞬間だった
先生「君、大丈夫かい?随分派手に転んでたけど、怪我ない?」
春香:目の前には深緑の着流しを着た、
え…この人…もしかして…
先生「はじめまして、俺は蝉元光哉。サイン会、
春香:あまりのことに目を白黒させていると、目の前の男性、
先生「鳩が豆鉄砲食らったみたい、ふふ。さ、こっちへ来て」
春香:先生は私においでおいでをする。
春香「は、はい!今行きます!」
春香:急いでブースに移動して、着席した先生の前に直立した
小百合はすっごいオッサンだろう、なんて言っていたけど、
優しそうな目元には少しシワがあって、着流しもあいまってか、
サインを書く音だけが響き渡る。何か喋らなければと思うのだが、
しかしこれでは何のために来たのかわからない
春香「あ、あの」
先生「ん?」
春香「せ、先生の本、本当に好きで、あの処女作の『
先生「ありがとう、俺もあの本は思い入れがあるから嬉しいよ」
春香:その時だった
先生「ねえ君」
春香:ニコニコしながら先生が衝撃的な言葉を投げた
先生「さっきの子とは恋人同士?」
春香「へ!?」
春香:あまりのことに変な声が出る
それがおかしくてたまらないといった様子で、先生はこう続けた
先生「いやね、さっきの子胸元のあいた服着てただろう?
もしかしてそうなんじゃないかと思ったんだけど、当たった?」
春香「えっと…その…」
春香:しまった。つい一昨日にお揃いだね、
だらだらと嫌な汗をかいてる私をよそに先生は続ける
先生「いや、
春香:ニヤリと、先生が悪い顔をする
先生「君としても、あんまりバレたくないことだよな?」
春香:なに、この人…私を一体どうするつもり…?
頭の中で警鐘が鳴る。これは脅しなのだろうか…?
先生「そんな顔するなよ、悪いようにはしないから。
春香「…」
春香:どうすればいい
先生が小声で話しているので、
小百合の笑顔が浮かぶ。絶対に、迷惑はかけたくない
答えは一つだった
小百合「あ!ハル遅かったじゃーん!」
春香:
小百合「って、あれ?どしたの?
春香「そ、んなことないよ…私、
小百合「え!?は!?大丈夫なわけ!?
春香「だ、大丈夫…!
小百合「なるほど、それで落ち込んでたわけかぁ、
春香「うるさいなあ」
春香:ああ、ごめん、小百合
私はまた、あなたに嘘をついてしまった
先生「よく来たね、春香ちゃん」
春香「…」
先生:
今日も暑い。蝉がよく鳴いている
少女も涼しげな白のブラウスにスカート姿だった
先生「本当に来てくれるとは思わなかった」
春香「…そうするように仕向けたのはどこの誰ですか」
先生「まあ、そう怒るなよ。今日は高い菓子も用意してるから、
春香「そん……お邪魔、します」
先生:そんなの要らない、という言葉を飲み込んだのだろう。
ますます興味をそそられてしまう
春香「あの、本当に誰にも言わないでいてもらえてますか?」
先生「ああ、俺は口が堅いから安心するといい」
春香「…あんまり、安心できないんですけど」
先生「俺は滅多に人と会わない。
春香「…」
先生:彼女は腑に落ちないといった顔をしている
じゃあなぜサイン会など開いたのか、と聞きたいのだろう
先生「サイン会ははちょっとした気まぐれだ。
先生:あの時のことを思い出しているのだろう
苦虫を噛み潰したような顔をしている彼女に俺は続ける
先生「そしたら、そこで思わぬ拾い物をしたんだ。
春香「そんな誠意のない謝罪、要りません」
先生:
俺が女について書くのは、知りたいからだ
自分にはないものを持っていて、
女なんて皆が皆清楚で可憐で純潔なわけがないのだ
汚れきっていて、
この子からは、その欲望の匂いがする
これからそれを、引きずり出してやる
先生「じゃあ、脱いで」
春香「…っえ?」
先生:
先生「だから、脱いで。それとも脱がせて欲しい?」
先生:やっと言葉の意味を理解したのか、
ここまで来る間にいろいろ考えたのだろう。
脅されている男の家に上がり込んで、
それか恋人を守るためか。いずれにせよ肝の据わった子だと思った
白に薄水色のリボンのついた下着が見えてくる
先生「下着は付けたままでいい」
春香「え」
先生「さすがに最初だし、はじめからなにかしようとは思ってない
…ただ、言ってきたことは守ってくれたようで安心した」
先生:彼女の顔がサッと赤くなる
柔らかそうな身体の至るところには、
そう、彼女が今日来る二日ほど前に連絡をして、
先生「それをつけてもらうとき、どんな風にお願いした?」
春香「そ、れは…」
先生「ベッドの中で、気持ちよくなりながら、
春香「…小百合のことを想像するのは、やめてください」
先生「へえ、小百合ちゃんっていうのか」
春香「っ」
先生:墓穴を掘った彼女はまただんまりになる
ああ、そうだ、女とはこうでなくては
欲望に忠実で、いじらしくて、愛らしい
クーラーのない部屋に慣れていないのか、
先生「小百合ちゃんとの出会いを教えて」
春香「…このまま、ですか?」
先生「そう、このまま」
先生:恥ずかしそうに胸元に手をやり、
春香「きっかけは、なんでもないことです。入学式の後、
先生「どっちから告白した?」
春香「…言わなきゃ、ダメですか」
先生「何しにここまで来た?
春香「…わかり、ました。告白は、小百合からです。
でも、なんとなく、雰囲気ってあるじゃないですか。
先生「それで春香ちゃんはどうした?」
春香「…正直、すごく、困りました。私はそんな気なかったし、
先生「で、OKした、と」
春香「…自分でもずるいってわかってます。
先生:懺悔室で神に懺悔するように、彼女の声は小さくなっていく
春香「私は、小百合のそばを離れちゃいけないんです。
先生:固い意志のようなものを視線から感じる
ゾクリ、とした
曖昧であやふやだった『女』というものは、
もっと知りたい、もっと深く、もっと、もっと
それから週に一回、彼女は俺の家を訪れるようになった
春香:この部屋には扇風機しかない
なぜクーラーをつけないのかと聞いたこともあったけど、
だからいつも窓があいている。
蝉もよく鳴いている。うるさいくらいだ
一週間に一回、
まず、最初に言っていた滅多に人に会わないというのは本当だ、
どんな人がいるかとビクビクしていたけれど、
それから私と小百合のことを本当に誰にも言っていないんだ、
大学や外で白い目で見られることもないし、
そして、脱ぐのが下着まででよかったのは、
二回目からは脱ぎやすい服装を指定され、
先生のセックスは淡々としているようだが、
そして、先生との行為は小百合とのそれよりずっと気持ちよかった
春香「…煙草臭い」
先生「(煙草を吹きかける)」
春香「ケホッ、ケホッ、やめてくださいよ!」
春香今日も情事を終えたあと、裸のまま布団に横たわり、
先生「昨日、小百合ちゃんとどんなことした?」
春香:これも毎回聞かれる質問だ
先生は私と小百合の関係によほど興味があるらしい
春香「…昨日は授業の終わりがかぶったので、
先生「セックスは?」
春香「…」
先生「したんだな。どっちが上?」
春香「…小百合、です」
先生「最近春香ばっか気持ちよくなってるのな。
春香「先生には、関係ないことでしょ…!」
先生「関係はある、お前のこと抱いてるんだから」
春香「…っ」
先生「なあ、どんな気持ち?俺に抱かれて、
春香「ないですよ、そんなの…」
先生「そんなことないだろ、あんなに気持ちいい、気持ちいい、
春香「そんなことないって、言ってるじゃないですか!!」
春香:気づいたら大声で叫んでいた
春香「背徳感?そんなものありません!後ろめたさと、
春香:言いながら、涙が止まらなかった
春香「ただ、先生の作品読んで、こんな私でもいいのかな、
先生「春香…」
春香「もう、やだ…先生といると、自分が惨めになります…!
春香:カバンを掴んで玄関に向かおうとする
その時思い切り腕を捕まれ、部屋に連れ戻された
春香「っいやだ!離して!離してください!!」
春香:抵抗も虚しく布団に押し倒されてしまう
先生は先ほどとはどこか違う、
こんな先生知らない、見たことない
何度背中や腕に爪を立てても、先生はどいてくれなかった
なぜだろう、私は今この人にはじめて必要とされている気がする。
それから私はもう一度、先生に抱かれた
先生:
いや、正確に言えば今までも無理矢理だったのだが、
先生「さすがに、もう来ないよなぁ…」
先生:自分でも、なぜあの時あそこまで興奮したのかわからない
泣きながらわめき散らす女を見て、いや、春香を見て、
俺の作品を読んで、許された気がしたと彼女は言った。
じゃあ自分は?そう考えたとき、真っ先に春香の顔が浮かんだ
自分の欲望のはけ口になっていたのは、春香だ
性行為のみならず、女とはどういうものか知りたいという欲求も、
ではこのあいだの強姦まがいは?あれは『女』
そこまで考えた時だった
(かすかなドアをノックの音)
先生「え…まさか…!」
先生:急いでドアを開けると、勢いに驚いたのだろうか、
先生「春香…なんで…!」
春香「え…?だって今日、約束の日、ですよね?」
先生「ちがう、こないだ、俺、あんな…!」
春香「ああ、あれですか…」
先生:春香は苦笑いをしながら首を傾げてこう言った
春香「先生、寂しかったんでしょう?」
先生「え…」
春香「あんなこと今までなかったし…
先生「あ、赤ちゃんて…お前…」
春香「先生は語彙力はあるのに感情表現ができないんですね、
先生:それを聞いてホッとしかけたとき、
先生「春香…お前、震えてるじゃないか…」
春香「…っ」
先生:ドアノブを握っていただろう手は宙に浮いて、
それを指摘すれば、
大丈夫なわけ、なかったんだ…
自分のしでかしたことの大きさを知る
先生「春香…本当に…ごめん…!」
春香「…やだ、先生、頭上げてくださいよ」
先生:その声までもが震えていた
どうしようもない気持ちになってうなだれていると、
ぴくりとのけぞって春香を見れば、
春香「…やっぱり大丈夫じゃないから、抱きしめてください」
先生「春香…!」
先生:触れたところから体温が伝わってくる
そうか、俺は寂しかったのか、
知りたいことをを知る前に自分のことを知らなければ、
春香「ふふ、暑いですね、先生」
先生「そう、だな」
春香「部屋で扇風機に当たりたいです」
先生「ああ」
春香「それからいっつも出しっぱなしにしてあるぬるい麦茶、
先生「ああ、わかった」
春香「ねえ、先生」
先生「なんだ?」
春香「蝉、すごいですね」
先生「蝉時雨だな」
春香「なんですかそれ」
先生「蝉がたくさん鳴いてることを言うんだよ」
春香「へえ、はじめて知りました」
先生「なあ、春香」
春香「なんですか、先生」
先生「これからも、来てくれるか?」
先生:春香の震えはもう、止まっていた
小百合「ねえ、ハル最近なんか機嫌よくない?」
春香「え、そ、かな?」
小百合:効果音をつけるなら、ギクリといったところ
ハルは最近私に隠し事をしている。絶対にだ
まず、前はあんなにしてたセックスに乗り気じゃなくなった。
それから週に何度か、私の誘いを断って遊びに行くようになった。
カマをかけてみたいところだけど、ハルに限って、
小百合「ね、ハル、あのさ…」
春香「そ、それよりさ、明日どこか遊びに行かない?」
小百合「え、明日無理だったんじゃないの?」
春香「えっと…大丈夫になった、から!どっか行こ!
小百合「うん、いいけど」
春香「どこ行きたい?」
小百合「んー、こないだ新しくできたっていうカフェ!駅前の!」
春香「いいよー、行こ」
小百合:ニコニコと笑うハルからかすかに煙草の匂いがする。
どこかでついた匂いなのかもしれない。わかってる。
小百合「ねえ、ハル」
春香「ん?」
小百合「大好きだよ」
春香「…うん、ありがとう」
小百合:こういうとき、ハルは決して好きだよ、
ハルが私のことをかわいそうに思って付き合ってくれていることは
告白した時も、優柔不断なハルに、
泣いて、すがって、私の手元に落ちてきてくれたハル
誰が相手だって絶対に渡したりなんかしない
(小さい声で)
小百合「絶対に渡さない」
春香「ん?小百合、今なんて?」
小百合「ううん、なんでもない!明日楽しみだなって!」
春香「そか」
小百合「うん、そう、楽しみ…」
先生「なあ春香、煙草買ってきてくれないか」
春香「え、やですよ、自分で行ってください。
先生「いやー!これで最後!最後にするから!」
春香「ハイ絶対嘘ー、イヤったらイヤです。
先生「ケチ!知らね、
春香「え!アイスは欲しい!けど外暑い!出たくない!」
先生「そんな子には買ってきてあげませーん」
春香「ケチ!いい大人のくせに!」
先生「うるさい!だいたいお前なあ…」
春香:その時、私のスマホがまた震えた
画面は見なくてもわかる、小百合だ
先生「なあ、出なくていいのか」
春香「…いいんです、大学で会ったらまた言えば」
春香:そこまで言いかけて、またスマホが震えた。長い、
どうしようと思ったけれど、先生の顔を見れば、
春香「…もしもし」
小百合「あ、ハル?…ねえ、今どこにいるの?」
春香「えっと」
小百合「蝉の音すごい、外なの?」
春香「あ…うん、そう」
小百合「そうなんだ!私ねいまハルの家向かってるんだけど、
春香「え、あ、うーんと」
小百合「なんか抜けられない用事?」
春香「…そんなとこ、かな」
小百合「…ふーん、わかった」
春香「ごめんね、明日なんか食堂でおごるよ」
小百合「やった!じゃあ一番高いランチおごってよ!」
春香「えー…」
小百合「あはは、ジョーダン!じゃあまた連絡するね!」
春香「う、うん!またね!」
春香:ツーツーという通話音がしばらく耳から離れなかった
スマホの画面を見ればじっとりとかいていた汗のせいで画面が濡れ
罪悪感。最近の小百合に対しての感情はその一言に尽きた
きっと小百合は勘のいい子だから何かを察しているに違いない。
私はどうしたらいいのだろう。どっちつかずの、宙ぶらりん。
先生「春香」
春香:先生が私を呼ぶ。振り向きざまにキスをされた。そのまま、
先生「なにも考えるな」
春香:その言葉通り、
甘い甘い毒を飲んだみたいに。ゆっくりと脳内を巡って、
小百合のこと、先生のこと、自分のこと、
ああ、今、私は許されているのだろうか
先生が、小百合が、私を許しているこの状況で、
わからない。わかるのはたった一つ、
今は、それだけでいいのかもしれない
くたびれた布団の中で、私たちは獣のように貪りあって、
春香「蝉時雨、すごいですね」
先生「…そんな風流な言葉知ってたとはな」
春香「ええ?先生が教えてくれたんですよ?」
先生「そうだったけか。なあ、春香、麦茶」
春香「それなら先生の近くに置いてあります」
先生「じゃ、煙草」
春香「だから、禁煙宣言はどこにいったんですか?」
先生「じゃ、キス」
春香「…ふふ、子供みたい」
先生:立ち上がった春香は俺のとがらせた唇に唇を重ねて、
その少し困ったような笑顔に、ようやく決心がついた
先生「…なあ春香、これは、お別れの挨拶だ。
先生:目をまん丸にさせた春香は、
春香「ふふ、
先生:もう一度、言葉を遮ってキスをする
何秒経っただろう、
先生「お前の幸せを、願ってる」
先生:春香の瞳は日差しが差し込んでキラキラと輝いていた
ずっと言おうと思っていたことだった
でも、怖くて言えなかった
この幸せな時間が終わってしまうことが怖くて
春香のいない日常に戻ることが怖くて
でも、こんなふうにビクビクしながら過ごす日々を、
罪悪感に押しつぶされそうな苦しみから解放してやりたかった
俺は春香に出会って、自分を知ることができた。
だから大丈夫だ、心配すんな
そんな気持ちを込めて輝く瞳を見つめる
こんなにいい女をふるのだから、
先生「幸せで、いてくれ」
先生:俺の願いは、ただこれだけだ
春香はひとしきりほうけた顔をしたあと、おもむろに服を着出し、
蝉時雨だけがいつまでも、いつまでも、
小百合「…ハル、おかえり」
春香「小百合…」
小百合:あれから電話を切ったあと、
気持ち悪いと思われるかなと思ったけれど、
ハルはびっくりした顔をしていたが、
小百合「は、ハル!?どうしたの!?」
春香「ごめ…ごめんね…ごめんなさい…ごめんなさい…」
小百合:泣きじゃくりながらしきりに、ごめんなさい、
春香「私…小百合に隠してたの…
小百合「ハル…」
春香「あの人にも、言わせちゃった…私、サイテーだ…!私、
小百合「…やっぱり、そうだったんだね。気づいてたよ、私」
春香「小百合…」
小百合「でも言えなかった、怖かった…すっごく怖かったんだ…」
春香「小百合…ごめんね…私小百合のそばにいる資格、ない…」
小百合「でもさ、ハル」
春香「…?」
小百合「わたしはどんなハルも許せちゃうんだ、なんでだろ、
春香「小百合…!ダメだよ、私…」
小百合:俯くハルに私は続ける
小百合「ねえ、その人になんて言われたの?」
春香「え…?その、『幸せでいてくれ』って…」
小百合「ふふ、その人も怖かったんだろうな、なんかわかるよ。
春香「小百合…」
小百合「『女とは移り気で気ままで、醜くく哀れで、
春香「それ、ズルい…」
小百合「ふふ、ね。だから大丈夫だよ、ハル」
春香「小百合…」
小百合:どちらからともなく近づいて、抱きしめ合う
夏といえど夜は冷える。
小百合「ねえハル、大好きだよ」
小百合:いつもみたいに気持ちを伝える。すると、
春香「…私も好きだよ、小百合」
春香:君の名前に入ってる『春』は、
だけど、私たちは出会ってはいけなかったのかもしれない
夏になるまで土の中で過ごす蝉のように、
あの夏は二度と帰ってこない
クーラーのない部屋で重ねた、じっとりとした手のひら
ぽつりぽつりと、水滴がつたうグラス
時折ゆるりとなびく、あなたの濡れた髪
ぬるい麦茶がのどを流れる感覚
気だるげに首をふる扇風機
薄暗い部屋のすみで盗み見た、あなたの首筋を伝う汗
ぽっかり開いた窓からながめた、苦しいほどに真っ青な夏空
そして、触れあった肌から感じた、体温
今日も、蝉時雨が、私の、あの夏の思い出をくすぐる
春香「ああ、もうすぐ、夏が来るね…」
~Fin~
2020.03.19 みたに
2021.03.22 改訂