『蝉時雨を忘れない』


※同性愛表現、描写としての性行為有り

春香:国際社会学先行の大学三年生 小百合とは恋人同士 流されやすいところがある 蝉元光哉のファン(21歳)
先生(蝉元光哉{せみもとこうや}):恋愛小説作家 女性同士の恋愛を題材にすることが多く『女』について深く追求している 子供っぽい一面がある(34歳)
小百合:純文学専攻の大学三年生 春香の恋人 少し嫉妬深いところがある 蝉元光哉のファン(21歳)



 

【配役表】

春香:

先生:

小百合:

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春香:とある書店に一冊の本が置かれていた
ハードカバーのそれは書店の隅に身を隠すように置かれていた
著者の名前は帯で隠れて見えない
その本のタイトルは…


先生『蝉時雨を忘れない』


小百合「あーあ、一番乗り、逃した…しかもほぼ後ろの方…まったく!ハルのせいだからね!どうしてくれんの!」

春香「…もう、それさっきから何回目?ホントに、この通り、ごめんってば!」

春香:小百合は時間にうるさい
待ち合わせの時は10分前に着いていないと機嫌が悪くなってしま
それが分かっていたからスマホのアラームを3つもかけたのに寝過ごしてしまった
それには訳があった

小百合「大体、楽しみすぎて眠れなかったなんて遠足前の小学生じゃないんだから!本当にあり得ない、まったくもう」

春香「うう、面目ない…」

春香:私たちの目の前の書店には『蝉本光哉(せみもとこうや)先生サイン会』と書かれた大きな看板が置かれていた
そう、私たちはこのサイン会に参加するため、最寄りから五駅のこの大きな書店に30分以上並んでいるのだ
蝉元光哉。ニッチな恋愛小説家であり、同時にエッセイ本も出版している作家だ
処女作は『君は影にくちづけた』で、内容としては女の欲と葛藤を描いた同性愛がテーマの作品である
ニッチな、と称したのには理由があって、処女作のような同性愛ものや女とはなにか、を描いた作品を多く世に出してる人物なのだ
私が何故ここまでこの作家について詳しくなったか、それはおおかた小百合の影響で
元々ハードカバーの本など読んだことはなかったのだけど、純文学を専攻している小百合がある日突然重たそうな本を持ってきて私に見せてきたのがことの始まりだ

(大学の食堂にて)

小百合「ねえハル!ちょっと!聞いて!これヤバイから!」

春香「え、ちょ、なに、どしたの急に。何その分厚い本。授業の教材?」

小百合「違うってば!あのね、私昨日いつもの本屋さん行ったんだけどね、そこでたまたまこの本がね!そしたらね!あー!何言いたいかわかんなくなってきた!!」

春香「わかった、わかったから、とりあえず一旦落ち着こ?お茶飲む?」

小百合「飲む!…(お茶を飲む)ふぅ、ありがと。あれ?ハルなんでこの時間食堂にいるの?」

春香「三時間目休講になっちゃって、でも四時間目あるから暇を持て余してたとこ。そっちは?」

小百合「授業終わり。小腹空いたからなんか食べようと思って…って!そうじゃなくて!この本!」

春香「あ、やっと思い出したか」

小百合「わかってたなら言ってよね!で、そうそう、本屋さん行ったらちっちゃいポップが置いてあったの。あそこの店員さんセンスいいからさ、試しに読んでみよって思って!
そしたら最初の三行読んだだけで引き込まれちゃって!」

春香「出ましたよ、小百合さんってば活字中毒なんだから」

小百合「ちーがーうーんーだって!もう!本当にいい本だったんだから!いい本?いや?私たちに刺さる本?みたいな?」

春香「なにそれ、ますますわからん」

小百合「いいからちょっと読んで!」

春香「え、今ここで!?」

小百合「いいから、はやく!はやく!」

春香:こうなったら小百合は引かない
正直ハードカバーには苦手意識しかなかった
小説なんて人生で触れてこなかったし、読んだって漫画がいいとこだ
もう一度小百合の顔を見る。瞳を輝かせてこちらを見ていた
仕方ない、か

春香「…わかったけど、最初の一ページだけだよ?」

小百合「全然いい!ハルなら絶対ハマるはず!」

春香「どうかなあ…」

春香:言いながらズシッとくる本の重みにげんなりする
ひとつため息をついてページをめくり文字列に目を落とす
そこから先は、あっという間だった
心臓をギュッと鷲掴みにされたような、不思議な高揚感と不安感に包まれるも、それは全く嫌じゃない
気が付けば小百合の声が遠くなり、周りの喧騒も遠のき、その文章に自分が見透かされているような感覚になった

小百合「……ル…ねえ、ハル!」

春香「っ!あ、え?」

春香:何分、何十分経っていたのだろう
時計を見ればとっくに四時間目が始まっている時間だった
小百合は呆れ笑いといった感じでこちらを見つめ、だからいったでしょ、と言った

小百合「ハルはハマるって私言ったじゃん。ね?面白かったでしょ?」

春香「あ…えっと…、うん」

春香:恥ずかしさに顔が赤くなる

小百合「なにー?照れちゃってるのー?ハルったら可愛いー!」

春香「ち、ちがっ!いや、違わないけど…」

小百合「ね、貸してあげるからさ、それ全部読みなよ」

春香「いいの?」

小百合「いいよ!私三回は読んだもん!」

春香「…ありがとう」

小百合「あーあ、四時間目もう行けないね、どうする?近くのカフェとかでお茶する?」

春香「…いや、その、これ、読みたい」

春香:私が呟くように告げると、小百合はパッと顔を明るくさせて、可愛い!と言いながら急に抱きついてきた

春香「ちょ、小百合!なにやって!バレたらどうす…」

小百合「なーに言ってんの!ここは女子大だよー?そこらじゅうに私たちみたいにハグしてる子なんているってば、心配しないの」

春香「でも…」

小百合「それ以上言うならチューしちゃうぞ?」

春香「!」

小百合「あはは!ジョーダン!じゃ、私バイトあるからもう行かないと!それ、じっくり読みなよねー!じゃ!」

春香:ワンピースをひらりと翻して、小百合は手を振り去っていった
『君は影にくちづけた』をカバンにしまうとずしり、持ち手が重くなる
けれど嫌な気持ちは湧いてくることなく、むしろ少し気分が高揚しているのがわかった
それが約三か月前のことである

小百合「女なんて本当に碌なもんじゃない。どいつもこいつもすました顔で考えてることといえば、気持ちのいいセックスと、友達というごっこ遊びの相手へのマウンティングと、酒と煙草とドラッグくらいだ。
好きだの愛してるだの、囁きキスした唇で、生理的に無理だの気持ち悪いだのと、罵倒する。それでも、女とは移り気で気ままで、醜くく哀れで、実に愛すべき存在なのだ」

春香「え、なに?それ『君は影にくちづけた』の最初じゃん!小百合、暗記してるの!?」

小百合「そんな訳ないじゃん、大好きだから持ってきたの。あわよくばサインもらおうと思って。でもさぁ、どっかの誰かさんが遅刻したせいでカバンが肩にくい込んで痛いんだよねぇ…」

春香「ああ!持ちます!持たせてください!」

小百合「ふふん、分かればよろしい」

春香:小百合が得意げな顔をしながらカバンを差し出す
受け取ると本当に重たかった。これは小百合に申し訳ないことをしたと反省する

小百合「いやぁ、でもさ、この本渡したその日の夜、ハルってば激しかったよねぇ…クスクス」

春香「ちょ!な!こんなところで何言ってんの!」

小百合「や、だって玄関で押し倒してきて無理やり、なんていままで一度もなかったじゃ」

春香「わーわー!やめてって、やめてったら!」

春香:私たちの関係はもちろんプラトニックなものではない
その日によって上下は入れ替わるけど、あの日は読み終わった途端衝動が抑えきれなくなって、深夜だというのに連絡もしないで小百合の家に強引に上がり込み、事に及んだのだ
なぜだろう、自分の中の欲望という欲望が言うことを聞かず、理性なんてものはなかった
気が付けば小百合が達したあとの激しい呼吸をしていて、床には下着が散らばっていた

小百合「それからだよね、先生の作品読んだあと、なんかハルってばエッチになっちゃって」

春香「ち、ちがっ!たまたまタイミングがそうなだけで、私は…!

春香:本当は小百合の言うとおりだった
蝉元先生の本を読むたびに欲望をこらえきれなくて、それをすべて小百合にぶつけていた
作品数自体多くはなかったので、今のところエッセイ本含め読破してしまっている
それほどまでに蝉元光哉という作家に熱をあげていた

小百合「ハイハイ、分かりました分かりました、そういうことにしときまーす…ってそろそろ10時じゃん」

春香「あ、ホントだ、開店時間だね」

小百合「はー!キンチョーしてきた!どんな人なんだろね!めっちゃイケメンだったらどうする?」

春香「どうするって…どうもしないよ、ああ、モテるんだろうなとしか思わないよ」

小百合「じゃあ逆に、すっごいオッサンだったら?だって男性ってことしか分かってなくて年齢不詳だし、著者近影もないし!」

春香「…モテないから女についてよく考えてるのかな、って思うだけだよ」

小百合「うっわハルってば辛辣ぅー!まあそうだよね、私はすっごいオッサンに一票!」

春香「あ、列動いた」

小百合「ヤバ!行こ行こ!」

春香:鼓動が高まるのを感じる
私の欲望をここまで掻き立てる存在、一体どんな姿をしているんだろう
サイン会は今日発売の、これまた同性愛がテーマの恋愛小説、『しとやかな雨の中で』を記念して開催されたものだ
先に本を購入しておいて、引換券を店員さんに渡して、サインをしてもらっている間話ができると聞いている
列が進むたび、鼓動が一つはねる。やがて特設ブースが見えてきた
いよいよ順番が巡ってきた

小百合「じゃ、先に行ってくるね!カバンありがと」

春香「あ、うん!出たとこで待ってて!」

小百合「わかった、行ってきます!」

春香:小百合の姿が見えなくなる
と、同時に柔らかい男性の声が聞こえてきた。一気に緊張が加速する
どうしよう、どうしよう、ああ、なにを話すか考えてなかった
ここにきて話す内容を決めていなかったことに気付く
今さらじたばたしても遅い。ほんの少し聞こえていた小百合の声と男性の声が聞こえなくなったと思ったら、次の方、と店員さんに呼びかけられた

春香「あ、は、はい!…っうわぁ!」

春香:緊張でもつれたサンダルは絡まり合い、私はそのまま思い切り転んだ
すぐに店員さんが駆け寄ってくる音がする
恥ずかしい、恥ずかしい!こんなのってあんまりだ!私のバカ!
幸い捻ってはいなかったのと、さほどソールの高くないサンダルだったおかげで怪我はなかった
ほっと一息ついたその瞬間だった

先生「君、大丈夫かい?随分派手に転んでたけど、怪我ない?」

春香:目の前には深緑の着流しを着た、背の高い男性が苦笑いをしながらこちらを見ていた
え…この人…もしかして…

先生「はじめまして、俺は蝉元光哉。サイン会、来てくれてありがとう」

春香:あまりのことに目を白黒させていると、目の前の男性、蝉元先生はくすくすと笑っている

先生「鳩が豆鉄砲食らったみたい、ふふ。さ、こっちへ来て」

春香:先生は私においでおいでをする。

春香「は、はい!今行きます!」

春香:急いでブースに移動して、着席した先生の前に直立した
小百合はすっごいオッサンだろう、なんて言っていたけど、見た目は三十代前半といったところだろう
優しそうな目元には少しシワがあって、着流しもあいまってか、いかにも物書きといった様子だ
サインを書く音だけが響き渡る。何か喋らなければと思うのだが、さっき転んだ姿を見られているかと思うと恥ずかしい
しかしこれでは何のために来たのかわからない

春香「あ、あの」

先生「ん?」

春香「せ、先生の本、本当に好きで、あの処女作の『君は影にくちづけた』とか、本当に何回も読み直してます…!」

先生「ありがとう、俺もあの本は思い入れがあるから嬉しいよ」

春香:その時だった

先生「ねえ君」

春香:ニコニコしながら先生が衝撃的な言葉を投げた

先生「さっきの子とは恋人同士?」

春香「へ!?」

春香:あまりのことに変な声が出る
それがおかしくてたまらないといった様子で、先生はこう続けた

先生「いやね、さっきの子胸元のあいた服着てただろう?そこからちらっとキスマークが見えたんだ。で、君がさっき転んだのもここから見えてね、その時おんなじようなところにこれまたキスマークがあって。
もしかしてそうなんじゃないかと思ったんだけど、当たった?」

春香「えっと…その…」

春香:しまった。つい一昨日にお揃いだね、なんて言って小百合がつけたそれが見えるなんて。だから私は嫌だって言ったのに…!
だらだらと嫌な汗をかいてる私をよそに先生は続ける

先生「いや、今日び同性愛者は増えたといえどもやっぱりマイノリティだよなあ…あの子は元々っぽかったけど君はそうじゃないだろう?俺書いてる題材が題材だから、普段から勘は働く方で」

春香:ニヤリと、先生が悪い顔をする

先生「君としても、あんまりバレたくないことだよな?」

春香:なに、この人…私を一体どうするつもり…?
頭の中で警鐘が鳴る。これは脅しなのだろうか…?

先生「そんな顔するなよ、悪いようにはしないから。とりあえずこの本に俺の名刺を挟んでおく。俺としても大きな声で君と彼女が恋人だなんて触れ回りたくないから、今、君の連絡先をくれると嬉しい」

春香「…」

春香:どうすればいい
先生が小声で話しているので、遠くにいる店員さんは不思議そうにこちらを見つめている。ブースには実質二人きりだ
小百合の笑顔が浮かぶ。絶対に、迷惑はかけたくない
答えは一つだった



小百合「あ!ハル遅かったじゃーん!」

春香:書店の中の雑誌コーナーにいた小百合は私を見つけるとすぐに駆け寄ってきた

小百合「って、あれ?どしたの?念願の先生に会えたのにテンション低くない?」

春香「そ、んなことないよ…私、さっき勢い余って転んじゃってさ」

小百合「え!?は!?大丈夫なわけ!?ちょっと捻ったりしてないでしょうね、平気なの!?」

春香「だ、大丈夫…!だから恥ずかしくて先生とあんまり会話できなくて…」

小百合「なるほど、それで落ち込んでたわけかぁ、でもそれはドジなハルが悪いね。ごしゅーしょーさま!」

春香「うるさいなあ」

春香:ああ、ごめん、小百合
私はまた、あなたに嘘をついてしまった










先生「よく来たね、春香ちゃん」

春香「…」

先生:ドアを開ければ非常に不本意といった顔の少女が玄関口に立ってい
今日も暑い。蝉がよく鳴いている
少女も涼しげな白のブラウスにスカート姿だった

先生「本当に来てくれるとは思わなかった」

春香「…そうするように仕向けたのはどこの誰ですか」

先生「まあ、そう怒るなよ。今日は高い菓子も用意してるから、まあ、上がって」

春香「そん……お邪魔、します」

先生:そんなの要らない、という言葉を飲み込んだのだろう。お邪魔します、なんて律儀で可愛らしい
ますます興味をそそられてしまう

春香「あの、本当に誰にも言わないでいてもらえてますか?」

先生「ああ、俺は口が堅いから安心するといい」

春香「…あんまり、安心できないんですけど」

先生「俺は滅多に人と会わない。編集の人も原稿はポストに入れてのやりとりだから、一日中口をきかないこともしばしばだ。って言っても信じてもらえないだろうから、これから徐々に信じてくれればいい」

春香「…」

先生:彼女は腑に落ちないといった顔をしている
じゃあなぜサイン会など開いたのか、と聞きたいのだろう

先生「サイン会ははちょっとした気まぐれだ。自分の書いている作品を一体どんな人間が、どんな気持ちで、どういうふうに読んでいるのか、確かめたくなった」

先生:あの時のことを思い出しているのだろう
苦虫を噛み潰したような顔をしている彼女に俺は続ける

先生「そしたら、そこで思わぬ拾い物をしたんだ。俺からしたらこんな幸運はない。逃しちゃいけないと、多少強引な手を使ってしまった、悪かった」

春香「そんな誠意のない謝罪、要りません」

先生:頑なな彼女をますます暴いてやりたいという思いが膨れ上がってい
俺が女について書くのは、知りたいからだ
自分にはないものを持っていて、あるものを持っていない曖昧な存在
女なんて皆が皆清楚で可憐で純潔なわけがないのだ
汚れきっていて、見るもおぞましい欲望を抱えたまま生きている女だっているはずだ
この子からは、その欲望の匂いがする
これからそれを、引きずり出してやる

先生「じゃあ、脱いで」

春香「…っえ?」

先生:ぽかんとした表情は何を言われたか理解できていない様子だった

先生「だから、脱いで。それとも脱がせて欲しい?」

先生:やっと言葉の意味を理解したのか、おもむろにブラウスのボタンを外していく彼女
ここまで来る間にいろいろ考えたのだろう。手は震えていたがためらいはなかった
脅されている男の家に上がり込んで、何もないなんてことがあるはずない。そう思ってのことなのだろう
それか恋人を守るためか。いずれにせよ肝の据わった子だと思った
白に薄水色のリボンのついた下着が見えてくる

先生「下着は付けたままでいい」

春香「え」

先生「さすがに最初だし、はじめからなにかしようとは思ってない
…ただ、言ってきたことは守ってくれたようで安心した」

先生:彼女の顔がサッと赤くなる
柔らかそうな身体の至るところには、あの日見たのと同じキスマークが、至るところについていた
そう、彼女が今日来る二日ほど前に連絡をして、恋人にキスマークをつけさせろと言ったのだ

先生「それをつけてもらうとき、どんな風にお願いした?」

春香「そ、れは…」

先生「ベッドの中で、気持ちよくなりながら、俺のためだと思ってオネダリしたのか?ああ、それとも君が上だった?彼女、つけてあげたら仕返しとかしてきそうだな」

春香「…小百合のことを想像するのは、やめてください」

先生「へえ、小百合ちゃんっていうのか」

春香「っ」

先生:墓穴を掘った彼女はまただんまりになる
ああ、そうだ、女とはこうでなくては
欲望に忠実で、いじらしくて、愛らしい
クーラーのない部屋に慣れていないのか、下着姿なのにじっとりと汗をかいている様もまた、彼女の魅力を引き立てていた

先生「小百合ちゃんとの出会いを教えて」

春香「…このまま、ですか?」

先生「そう、このまま」

先生:恥ずかしそうに胸元に手をやり、しきりに足をもぞもぞさせた彼女は、ひとつため息をついて観念したように話し始めた

春香「きっかけは、なんでもないことです。入学式の後、学部で友達ができずに悩んでいたら、持ってるの同じカバンだねって食堂で話しかけてくれたんです。あの子は、とても社交的で、友達ももうたくさんいただろうに、一人ぼっちで暗い顔してた私のこと気にしてくれたんです。そこから小百合と仲良くなって、一緒にいる時間が増えました」

先生「どっちから告白した?」

春香「…言わなきゃ、ダメですか」

先生「何しにここまで来た?俺は春香ちゃんから創作意欲をもらおうと思ってるけど」

春香「…わかり、ました。告白は、小百合からです。ちょうど仲良くなって一年たったくらいから、小百合は私が他の友達と遊びに行くの、嫌がり始めたんです。わけを聞いても教えてくれなくて。
でも、なんとなく、雰囲気ってあるじゃないですか。私の勘違いかなって思ってたら、私の家で二人きりの時に、泣きながら、友達としてじゃなく恋愛対象として好きだ、って言われて」

先生「それで春香ちゃんはどうした?」

春香「…正直、すごく、困りました。私はそんな気なかったし、かといってぼろぼろ泣きながらごめんねって繰り返す小百合が、ここで断ったらこの先いなくなるのかと思うととても不安で」

先生「で、OKした、と」

春香「…自分でもずるいってわかってます。でも私には小百合をつなぎとめておく方法が他に分からなくて…。あの時は嘘をついてしまったと思ってます。でも、一緒にいるうちに、これが恋愛感情なのかもしれないって思うこともあったし、だから…」

先生:懺悔室で神に懺悔するように、彼女の声は小さくなっていく

春香「私は、小百合のそばを離れちゃいけないんです。小百合と私のこと、絶対に誰にも言わないでください」

先生:固い意志のようなものを視線から感じる
ゾクリ、とした
曖昧であやふやだった『女』というものは、皮を一枚めくるとこんなにもいろんな表情をみせるのか
もっと知りたい、もっと深く、もっと、もっと
それから週に一回、彼女は俺の家を訪れるようになった











春香:この部屋には扇風機しかない
なぜクーラーをつけないのかと聞いたこともあったけど、冷たい空気が苦手なのだと一蹴されてしまった
だからいつも窓があいている。そこからぽっかりと見える青空はいつも綺麗だった
蝉もよく鳴いている。うるさいくらいだ
一週間に一回、この家に通うようになってわかったことがいくつかある
まず、最初に言っていた滅多に人に会わないというのは本当だ、ということ
どんな人がいるかとビクビクしていたけれど、今のところ郵便局員さんにしか会ったことがない。他の部屋はほぼ空いているらしい
それから私と小百合のことを本当に誰にも言っていないんだ、ということ
大学や外で白い目で見られることもないし、なにより小百合が知らない様子だった。これは安心した
そして、脱ぐのが下着まででよかったのは、最初だけだったということ
二回目からは脱ぎやすい服装を指定され、そのまま布団に押し倒された。あとはもう、されるがままだった
先生のセックスは淡々としているようだが、私はどこが感じるのか確かめているようで、どこか実験めいていると感じた
そして、先生との行為は小百合とのそれよりずっと気持ちよかった

春香「…煙草臭い」

先生「(煙草を吹きかける)」

春香「ケホッ、ケホッ、やめてくださいよ!」

春香今日も情事を終えたあと、裸のまま布団に横たわり、煙を吹きかけてきた先生に抗議をしたら、ニヤニヤと笑ってみせた。ピース独特の匂いがする。腹が立つ

先生「昨日、小百合ちゃんとどんなことした?」

春香:これも毎回聞かれる質問だ
先生は私と小百合の関係によほど興味があるらしい

春香「…昨日は授業の終わりがかぶったので、そのまま小百合の家でご飯を食べました」

先生「セックスは?」

春香「…」

先生「したんだな。どっちが上?」

春香「…小百合、です」

先生「最近春香ばっか気持ちよくなってるのな。小百合ちゃんカワイソー」

春香「先生には、関係ないことでしょ…!」

先生「関係はある、お前のこと抱いてるんだから」

春香「…っ」

先生「なあ、どんな気持ち?俺に抱かれて、小百合ちゃんに抱かれるのって。背徳感とかある?それで余計に感じるとか?」

春香「ないですよ、そんなの…」

先生「そんなことないだろ、あんなに気持ちいい、気持ちいい、ってうわごとみたいに言っといて。やっぱり、女は快楽に弱いんだな。今度小百合ちゃんにしてあげるときは俺みたいに…」

春香「そんなことないって、言ってるじゃないですか!!」

春香:気づいたら大声で叫んでいた

春香「背徳感?そんなものありません!後ろめたさと、ごめんねって気持ちと、そればっかり!授業にも小百合にも全然集中できない!なんで、なんでこんなことするんですか…!私、ただ…」

春香:言いながら、涙が止まらなかった

春香「ただ、先生の作品読んで、こんな私でもいいのかな、中途半端なのに欲望にだけは忠実でいいのかなって…!許されるのかなって、そう思ってたのに…!」

先生「春香…」

春香「もう、やだ…先生といると、自分が惨めになります…!すごく汚れてて、どっちつかずで、半端ものだって思い知るんです…!先生のせいです!先生のせいで、私は自分のこと見たくないのにさらけ出さなきゃいけないんです!

春香:カバンを掴んで玄関に向かおうとする
その時思い切り腕を捕まれ、部屋に連れ戻された

春香「っいやだ!離して!離してください!!」

春香:抵抗も虚しく布団に押し倒されてしまう
先生は先ほどとはどこか違う、切羽詰った様子で私の首筋に噛み付いてきた
こんな先生知らない、見たことない
何度背中や腕に爪を立てても、先生はどいてくれなかった
なぜだろう、私は今この人にはじめて必要とされている気がする。こんな状況なのに…
それから私はもう一度、先生に抱かれた











先生:春香を無理矢理抱いてからちょうど一週間が経とうとしていた
いや、正確に言えば今までも無理矢理だったのだが、あそこまで抵抗している女性を抱いたことはなかった。あれではほぼ強姦だ

先生「さすがに、もう来ないよなぁ…」

先生:自分でも、なぜあの時あそこまで興奮したのかわからない
泣きながらわめき散らす女を見て、いや、春香を見て、欲望がかきたてられた。どうしようもなく、せりあがってくるものだった
俺の作品を読んで、許された気がしたと彼女は言った。俺は知らず知らずのうちに、彼女を許していたのか
じゃあ自分は?そう考えたとき、真っ先に春香の顔が浮かんだ
自分の欲望のはけ口になっていたのは、春香だ
性行為のみならず、女とはどういうものか知りたいという欲求も、彼女は叶えてくれていた
ではこのあいだの強姦まがいは?あれは『女』が知りたかったんじゃなく、『春香自身』が知りたかったんじゃないか?
そこまで考えた時だった

(かすかなドアをノックの音)

先生「え…まさか…!」

先生:急いでドアを開けると、勢いに驚いたのだろうか、びっくりした顔の春香が立っていた。

先生「春香…なんで…!」

春香「え…?だって今日、約束の日、ですよね?」

先生「ちがう、こないだ、俺、あんな…!」

春香「ああ、あれですか…」

先生:春香は苦笑いをしながら首を傾げてこう言った

春香「先生、寂しかったんでしょう?」

先生「え…」

春香「あんなこと今までなかったし…そりゃ怖かったしびっくりしたけど、私も言い過ぎだったと思うので…それに、先生まるで私にしがみついてくる赤ちゃんみたいでしたよ?」

先生「あ、赤ちゃんて…お前…」

春香「先生は語彙力はあるのに感情表現ができないんですね、だからあんなふうに乱暴するしかなかったんでしょ?大丈夫ですよ」

先生:それを聞いてホッとしかけたとき、あることに気づき愕然とした

先生「春香…お前、震えてるじゃないか…」

春香「…っ」

先生:ドアノブを握っていただろう手は宙に浮いて、カタカタと震えていた
それを指摘すれば、露出している部分には鳥肌が立っていることもわかった
大丈夫なわけ、なかったんだ…
自分のしでかしたことの大きさを知る

先生「春香…本当に…ごめん…!」

春香「…やだ、先生、頭上げてくださいよ」

先生:その声までもが震えていた
どうしようもない気持ちになってうなだれていると、震える春香の手がそっと頬に触れた
ぴくりとのけぞって春香を見れば、泣きそうな顔をしている彼女は涙をこらえながら、ふっと笑った

春香「…やっぱり大丈夫じゃないから、抱きしめてください」

先生「春香…!」

先生:触れたところから体温が伝わってくる
そうか、俺は寂しかったのか、どうしてそんなことに気づけなかったんだ
知りたいことをを知る前に自分のことを知らなければ、彼女の言うとおりただの赤ん坊じゃないか

春香「ふふ、暑いですね、先生」

先生「そう、だな」

春香「部屋で扇風機に当たりたいです」

先生「ああ」

春香「それからいっつも出しっぱなしにしてあるぬるい麦茶、飲みたいです」

先生「ああ、わかった」

春香「ねえ、先生」

先生「なんだ?」

春香「蝉、すごいですね」

先生「蝉時雨だな」

春香「なんですかそれ」

先生「蝉がたくさん鳴いてることを言うんだよ」

春香「へえ、はじめて知りました」

先生「なあ、春香」

春香「なんですか、先生」

先生「これからも、来てくれるか?」

先生:春香の震えはもう、止まっていた











小百合「ねえ、ハル最近なんか機嫌よくない?」

春香「え、そ、かな?」

小百合:効果音をつけるなら、ギクリといったところ
ハルは最近私に隠し事をしている。絶対にだ
まず、前はあんなにしてたセックスに乗り気じゃなくなった。してる最中もどこか上の空なことが増えた。これはハルが言ったわけじゃないが、明らかに他の誰かを思っているのだと思う
それから週に何度か、私の誘いを断って遊びに行くようになった。きっと誰かに会いに行っているのだろう。誰かは、わからないけれど
カマをかけてみたいところだけど、ハルに限って、という信じる気持ちもあってなかなか踏み込めないでいた

小百合「ね、ハル、あのさ…」

春香「そ、それよりさ、明日どこか遊びに行かない?」

小百合「え、明日無理だったんじゃないの?」

春香「えっと…大丈夫になった、から!どっか行こ!明日学校もないじゃん!」

小百合「うん、いいけど」

春香「どこ行きたい?」

小百合「んー、こないだ新しくできたっていうカフェ!駅前の!」

春香「いいよー、行こ」

小百合:ニコニコと笑うハルからかすかに煙草の匂いがする。本当に、ほんの少しだけ
どこかでついた匂いなのかもしれない。わかってる。でもそのほんの少しが私の不安を煽る

小百合「ねえ、ハル」

春香「ん?」

小百合「大好きだよ」

春香「…うん、ありがとう」

小百合:こういうとき、ハルは決して好きだよ、とは返してくれない
ハルが私のことをかわいそうに思って付き合ってくれていることは分かっているつもりだ
告白した時も、優柔不断なハルに、逃げ道を与えないようにしたのだから
泣いて、すがって、私の手元に落ちてきてくれたハル
誰が相手だって絶対に渡したりなんかしない

(小さい声で)
小百合「絶対に渡さない」

春香「ん?小百合、今なんて?」

小百合「ううん、なんでもない!明日楽しみだなって!」

春香「そか」

小百合「うん、そう、楽しみ…」











先生「なあ春香、煙草買ってきてくれないか」

春香「え、やですよ、自分で行ってください。ってか禁煙するんじゃなかったんですか?」

先生「いやー!これで最後!最後にするから!」

春香「ハイ絶対嘘ー、イヤったらイヤです。いいからご自分で行ってください」

先生「ケチ!知らね、お前の分のアイス買ってやろうと思ったのにー」

春香「え!アイスは欲しい!けど外暑い!出たくない!」

先生「そんな子には買ってきてあげませーん」

春香「ケチ!いい大人のくせに!」

先生「うるさい!だいたいお前なあ…」

春香:その時、私のスマホがまた震えた
画面は見なくてもわかる、小百合だ

先生「なあ、出なくていいのか」

春香「…いいんです、大学で会ったらまた言えば」

春香:そこまで言いかけて、またスマホが震えた。長い、今度は電話だ
どうしようと思ったけれど、先生の顔を見れば、出てやれと言わんばかりにスマホを指さされた

春香「…もしもし」

小百合「あ、ハル?…ねえ、今どこにいるの?」

春香「えっと」

小百合「蝉の音すごい、外なの?」

春香「あ…うん、そう」

小百合「そうなんだ!私ねいまハルの家向かってるんだけど、会えない?」

春香「え、あ、うーんと」

小百合「なんか抜けられない用事?」

春香「…そんなとこ、かな」

小百合「…ふーん、わかった」

春香「ごめんね、明日なんか食堂でおごるよ」

小百合「やった!じゃあ一番高いランチおごってよ!」

春香「えー…」

小百合「あはは、ジョーダン!じゃあまた連絡するね!」

春香「う、うん!またね!」

春香:ツーツーという通話音がしばらく耳から離れなかった
スマホの画面を見ればじっとりとかいていた汗のせいで画面が濡れていた
罪悪感。最近の小百合に対しての感情はその一言に尽きた
きっと小百合は勘のいい子だから何かを察しているに違いない。けど触れないでいてくれる。いや、触れられないのだ、怖くて。あの子はああ見えて臆病なところもあるから
私はどうしたらいいのだろう。どっちつかずの、宙ぶらりん。どっちに対しても不誠実だ

先生「春香」

春香:先生が私を呼ぶ。振り向きざまにキスをされた。そのまま、布団に身体をゆっくり押し倒される

先生「なにも考えるな」

春香:その言葉通り、先生の愛撫が始まれば難しいことは考えられなくなっていく
甘い甘い毒を飲んだみたいに。ゆっくりと脳内を巡って、思考回路を鈍らせる
小百合のこと、先生のこと、自分のこと、何もかも溶けて混ざって、欲望に変わる
ああ、今、私は許されているのだろうか
先生が、小百合が、私を許しているこの状況で、罪悪感が拭えないのはどうしてだろうか
わからない。わかるのはたった一つ、先生が触れた部分が気持ちいいということ
今は、それだけでいいのかもしれない
くたびれた布団の中で、私たちは獣のように貪りあって、ずっとずっと、慰めあっていた












春香「蝉時雨、すごいですね」

先生「…そんな風流な言葉知ってたとはな」

春香「ええ?先生が教えてくれたんですよ?」

先生「そうだったけか。なあ、春香、麦茶」

春香「それなら先生の近くに置いてあります」

先生「じゃ、煙草」

春香「だから、禁煙宣言はどこにいったんですか?」

先生「じゃ、キス」

春香「…ふふ、子供みたい」

先生:立ち上がった春香は俺のとがらせた唇に唇を重ねて、触れるだけのキスをする。ピースの独特の香りがする、と彼女は笑った
その少し困ったような笑顔に、ようやく決心がついた

先生「…なあ春香、これは、お別れの挨拶だ。いつまでもこんな男に構っていないで、小百合ちゃんのところ、帰ってやれ」

先生:目をまん丸にさせた春香は、一瞬ぴたっと止まったあとくすくすと笑い始めた

春香「ふふ、そう言ってまた三日後には煙草買ってこいって連絡するんでしょう?出来もしない口約束はするもんじゃな…」

先生:もう一度、言葉を遮ってキスをする
何秒経っただろう、触れるだけの口づけはいつまでも名残惜しかった

先生「お前の幸せを、願ってる」

先生:春香の瞳は日差しが差し込んでキラキラと輝いていた
ずっと言おうと思っていたことだった
でも、怖くて言えなかった
この幸せな時間が終わってしまうことが怖くて
春香のいない日常に戻ることが怖くて
でも、こんなふうにビクビクしながら過ごす日々を、春香には送ってほしくなかった
罪悪感に押しつぶされそうな苦しみから解放してやりたかった
俺は春香に出会って、自分を知ることができた。気づくことができた
だから大丈夫だ、心配すんな
そんな気持ちを込めて輝く瞳を見つめる
こんなにいい女をふるのだから、きっとこの先いいことはないだろうけど、まあそれも、俺らしくていいだろう

先生「幸せで、いてくれ」

先生:俺の願いは、ただこれだけだ
春香はひとしきりほうけた顔をしたあと、おもむろに服を着出し、振り向きもしないで部屋から出ていった
蝉時雨だけがいつまでも、いつまでも、網戸の隙間から鳴り響いてやまなかった











小百合「…ハル、おかえり」

春香「小百合…」

小百合:あれから電話を切ったあと、何時間もハルの家の前で待っていた
気持ち悪いと思われるかなと思ったけれど、どうしても不安が拭えなくていてもたってもいられなかった
ハルはびっくりした顔をしていたが、その顔を急に歪ませるとボロボロと泣き始め、やがてうずくまってしまった

小百合「は、ハル!?どうしたの!?」

春香「ごめ…ごめんね…ごめんなさい…ごめんなさい…」

小百合:泣きじゃくりながらしきりに、ごめんなさい、を繰り返すハル

春香「私…小百合に隠してたの…ここ最近ずっと違う人と会ってた…小百合のこと、裏切ってた…!

小百合「ハル…」

春香「あの人にも、言わせちゃった…私、サイテーだ…!私、わたし…!小百合にも顔向けできない…!」

小百合「…やっぱり、そうだったんだね。気づいてたよ、私」

春香「小百合…」

小百合「でも言えなかった、怖かった…すっごく怖かったんだ…」

春香「小百合…ごめんね…私小百合のそばにいる資格、ない…」

小百合「でもさ、ハル」

春香「…?」

小百合「わたしはどんなハルも許せちゃうんだ、なんでだろ、惚れた弱みかな、えへへ」

春香「小百合…!ダメだよ、私…」

小百合:俯くハルに私は続ける

小百合「ねえ、その人になんて言われたの?」

春香「え…?その、『幸せでいてくれ』って…」

小百合「ふふ、その人も怖かったんだろうな、なんかわかるよ。ねえハル?二人で、幸せになろ?私、嫉妬深くて、ヤキモチ焼きだけどさ。ハルはフラフラしてて、ちょっと危なっかしいところあるけどさ。二人でいれば、なんとかなるって思うの。どうかな?」

春香「小百合…」

小百合「『女とは移り気で気ままで、醜くく哀れで、実に愛すべき存在』だよ、ハル」

春香「それ、ズルい…」

小百合「ふふ、ね。だから大丈夫だよ、ハル」

春香「小百合…」

小百合:どちらからともなく近づいて、抱きしめ合う
夏といえど夜は冷える。少し肌寒くなった夜にはハルの体温が心地よかった

小百合「ねえハル、大好きだよ」

小百合:いつもみたいに気持ちを伝える。すると、ハルは涙でぐしゃぐしゃの顔でこう返した

春香「…私も好きだよ、小百合」











春香:君の名前に入ってる『春』は、出会いの季節だと先生は笑った
だけど、私たちは出会ってはいけなかったのかもしれない
夏になるまで土の中で過ごす蝉のように、地上に出てはいけなかったのかもしれない
あの夏は二度と帰ってこない
クーラーのない部屋で重ねた、じっとりとした手のひら
ぽつりぽつりと、水滴がつたうグラス
時折ゆるりとなびく、あなたの濡れた髪
ぬるい麦茶がのどを流れる感覚
気だるげに首をふる扇風機
薄暗い部屋のすみで盗み見た、あなたの首筋を伝う汗
ぽっかり開いた窓からながめた、苦しいほどに真っ青な夏空
そして、触れあった肌から感じた、体温
今日も、蝉時雨が、私の、あの夏の思い出をくすぐる


春香「ああ、もうすぐ、夏が来るね…」

 

 

 

 

~Fin~

  

 

 

2020.03.19  みたに

2021.03.22  改訂

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